医道の日本誌掲載文全文

 NO・活性酸素と鍼灸治療
                −鍼灸刺激による細胞のストレス応答と、遺伝子の転写調節−
                                                                中谷好之
 はじめに
 1998年のノーベル医学生理学賞は、NO(エヌオー、一酸化窒素)が、ニトログリセリンの強力な血管拡張作用の原因物質である事を発見した3
名に与えられた。またバイアグラの原理にNOが関わっていた事も、NOを有名にさせた一因であった。
 NOはその強い血管拡張作用により循環器系に深く関与するだけでなく、神経系、免疫系にも関わり、その作用は従来の生理活性物質の概念を
覆す程のものであった。鍼灸刺激は、その起炎症的な性格から、フリーラジカルである活性酸素と深い関係があると言われてきた。では同じフリー
ラジカルであるNOも鍼灸刺激と関係があるのだろうか?
 驚くべき事に、鍼灸の治効理論の分野では、間接的な表現ではあるが以前より、鍼灸の治療機序にNOが関わっている事が示唆されていたの
である。(後述)
 鍼灸刺激に由来するNO、活性酸素やストレス蛋白質は、細胞のストレス応答や遺伝子発現の調節を通じて、多大な治療効果をあげる。
 本稿は、気の作用の一部や補瀉手技による治効の機序が、NOや活性酸素等のフリーラジカルの作用によって、基礎医学的に解明可能な事を
示すものである。
 T.フリーラジカル―活性酸素・NO
 フリーラジカルとは不安定な孤立した電子を持つ分子や原子の事で、自ら安定しようとして、周囲から強引に電子を奪う、つまり酸化する事で傷
害性を発揮する。活性酸素、NO、脂質ラジカルなどがある。

 1.活性酸素
  活性酸素は、ミトコンドリアや虚血再灌流によって発生したり、好中球などが殺菌用に積極的に産生する。また紫外線や薬剤からも生じ、その
酸化ストレスで細胞は傷害されるため、善悪二面の性格を持つといわれる。しかし最近、細胞内のシグナル伝達物質としても、かなり重要な働き
を行っている事が、明らかにされてきた。
 例えば、炎症時にあるサイトカインが生じるという事は、刺激が細胞膜から核へ伝達され、サイトカインを作る遺伝子を核内で発現したという事で
ある。このような仕組みを、シグナル伝達系と呼ぶ。細胞のストレス応答に関係する重要な伝達系には、NF-κB(エヌエフカッパビー)やマップキ
ナーゼ(MAPK)系がある。これらは活性酸素で刺激され、様々な生理活性物質や細胞の増殖、活性化などに遺伝子の転写調節レベルで関与す
るものである。また、一連の酸化還元反応により、調節される特徴を持つ。
 熱ショックストレスが、熱ショック蛋白質の産生を誘導するように、酸化ストレスも様々なストレス蛋白質を誘導産生する。これらも細胞の活性化、
抗酸化ストレス、などに重要な働きを示す。
 2.NO
 NOはアミノ酸からNO合成酵素(NOS、 ノス)によって作られる。
 NOS には3種類あり、それぞれeNOS(イーノス、血管内皮型)、nNOS(エヌノス、神経型)、iNOS(アイノス、誘導型)と呼ぶ。NOは白血球や血小
板の凝集の抑制、活性酸素のスカベンジャー(掃除人)様の働きがあり、抗炎症・抗酸化作用を持つ。しかし、NOもフリーラジカルであり善悪の二
面性を持つ。 eNOSは主に血管内皮細胞にある。血管内皮は血液によって、常に流れの方向へ引きずられる力(シェアストレス)を受けている
が、これにより生じたNOが隣接する血管平滑筋を強力に弛緩する。また、アセチルコリン、サブスタンスP、ヒスタミンなどによってもNOを遊離す
る。
 nNOSは、主に中枢・末梢神経に分布している。末梢神経にはノルアドレナリンでもアセチルコリンでもない物質(NO、CGRPなど)で作動する、N
ANC血管拡張神経(以下NO作動性血管拡張神経)が以前より知られているが、ヒトではこの神経の大部分でnNOSが働いていると考えられてい
る。 iNOSは広範な組織にあり、細菌毒素やサイトカインによって急激に増え、大量のNOを一過性に産生し、細菌等を排除する。しかし、これは細
胞も傷害し、激しい血管拡張は、敗血症性ショックを起こす。これはNOの悪玉的な面である。

 U.鍼灸刺激とフリーラジカル
 鍼灸刺激と、神経系、免疫系については多くの研究がなされている。ここでは血行動態を中心にして、鍼灸とフリーラジカルの関係を考えていき
たい。
 1.鍼灸と活性酸素
 鍼灸刺激で発生する活性酸素を直接測定した例を残念ながら筆者は知らない。しかし、組織破壊によって、好中球やサイトカインが増加する事を
考えると、施術局所で活性酸素が発生している可能性は大変高い。例えば、関西鍼灸短期大学の戸田教授は、刺鍼によるSOD (活性酸素除去
酵素)活性の上昇を確認している。これは活性酸素がNF-κBを活性化し、 SOD遺伝子の発現が増加した証拠と思われる。また同大学は鍼通電
によるFOS蛋白の脊髄後角細胞での発現も確認しているが、この蛋白の生成には前述のマップキナーゼ系が関与する。これは、活性酸素が刺
鍼局所でもマップキナーゼ系を活性化する可能性を示している。
 灸刺激でも、好中球、マクロファージ等が集中し、炎症性サイトカインも増加するので、鍼刺激同様、活性酸素も増えると考えられる。 しかし余
分な活性酸素は悪玉的な作用を正常細胞に及ぼしてしまうが、ここにこそ艾を使用する意味が生きてくる。戸田教授は艾に強力な活性酸素除去
作用がある事を報告している。また艾の灰は、炭素自身が還元電位(余分の電子)を持っている為、活性酸素に電子を渡しやすいと考えられる。
艾のこのような性質により、施灸時に、過剰な活性酸素の一過性の発生が未然に防がれ、生体にとって有用性の高い比較的低濃度の活性酸素
が活かされる事になる。
 ところで間中博士の考案したイオンパンピングは、ダイオードを配した導線で、刺鍼した二穴を繋ぐ治療法である。一方の経穴で活性酸素が多く
発生している場合〔活性酸素生成の一種の連鎖反応が、脂質ラジカルを中心に起きる事もある〕電子を供給つまり、還元すればラジカル連鎖反応
は停止できる。劇的にイオンパンピングが効果を表すケースは、活性酸素の多い還元電位の低い部分へ、導線経由で有効に電子が供給された
結果と考えられる。
 2.鍼灸とNO
 鍼灸刺激によるNO発生の測定についても筆者は知らない。しかし冒頭で述べた様に以前より鍼灸刺激とNOの関連を示唆する生理反応が鍼灸
理論において示されている。鍼灸理論は、軸索反射によるサブスタンスPやCGRPなどが血管拡張に関与すると示唆してきた。 しかし、これらが
どの様な機序で血管を拡張するのかという点について、具体的に述べられていなかった様である。実は、これらによる血管拡張作用は内皮依存
性であると言われている。つまり、サブスタンスPなどは内皮細胞のeNOSを活性化し、NOを放出する。結局このNOが血管拡張を起こしているわけ
である。従って、鍼灸刺激はサブスタンスPやCGRPで生じるNOによって、血管を拡張すると表現できるのである。(但しCGRPには薬理学的に内
皮依存性ではない部分も存在する事が解っている。)
 他にもNOの産生を上昇させる効果が鍼灸刺激に存在する。
 @シェアストレスによるeNOSの活性化
 例えば、鍼体が刺入されると、鍼体自体や鍼体による組織圧迫の力が、血管の内腔を狭くし、血流速度が上がるのでシェアストレスも強くなり、
eNOSが活性化される。三番鍼の鍼体直径は〇・二oであるのに対し、標準的な細動脈の血管径は〇・〇七o程度である。 三番鍼は細動脈の
約三倍の太さとなる。毛細血管と比較すると鍼体は二十倍以上となり、小動脈とでは五分の一の直径になってしまう。 鍼体が太すぎても逆に細
すぎても影響力が小さくなる。細動脈は抵抗血管として血圧を決めるウェイトが大きいが、鍼体は細動脈のシェアストレスを高めるのに最も効率的
な太さを持っていると考えられる。
 透熱灸は一過性に血流を減少させ、その後反動的に、血流量が増加するという報告が多い。灸刺激でも軸索反射の関与は当然考えられるが、
リバウンドによる血流増加という機序は、次のように考える。灸の熱刺激がまず交感神経を刺激し、一過性の血管の収縮を惹起させる。その結果
シェアストレスが上がり内皮細胞からのNOにより、血管平滑筋が弛緩する。つまり灸刺激でもNOは産生されると考えられる。捻挫などの炎症性
疾患で、透熱灸が有効な場合ではNOが抗炎症効果を発揮していると思われる。
 ANO作動性血管拡張神経の興奮
 刺鍼による血流量増加効果は、神経性調節系を介した即時的な効き方を示すが、同時に長期的に持続するという点では液性調節の関与も伺わ
せる。この一見矛盾するような、刺鍼の効果をよく捉えた研究がある。
 杏林大学保健学部の秋元講師は、手三里の刺鍼で、刺鍼直後から末梢動脈での血流量が最大で1・5から2倍程度まで増加するが、血圧、心
拍数、心拍出量にはほとんど変化がなかった点と、抜鍼、三十分経過後でも血管平滑筋が弛緩し続ける事を確認した研究を行っている。この持続
的な血管弛緩は、鍼灸師が臨床で経験する事実を実験的に再現したものでもある。本来短時間で作動する自立神経系の働きだけで、このような
生理現象の持続性を説明する事はかなり難しい。それに動脈がこれ程弛緩すれば、血圧の低下や反射性の頻脈が起きても不思議ではない。
 鍼灸刺激独特のものとも思える、この生理現象と良く似た現象を、実は西洋医学の分野に見出す事ができる。低用量のニトログリセリンは、動
脈、静脈双方の血管平滑筋を弛緩させ拡張する。特に静脈を拡張するので、心室への負担は低下するが、血圧はほとんど変化しない。つまり血
圧に影響を与えない程の量のニトログリセリンでも、かなり血管平滑筋を弛緩出来る事実が知られている。ニトログリセリンの血管拡張作用はNO
やNOの化合物が原因であり、ここで、NO作動性血管拡張神経との接点が見えてくる。
 手三里への刺鍼によってNO作動性血管拡張神経や交感神経が興奮し、NOが生じる。これらのNOやNOの化合物は全身の血中に散布され、全
身の動・静脈を持続的に弛緩させる。それは低用量の二トログリセリンの作用に似た効果を表す為、血管が弛緩する割には血圧が下がらず、心
臓に負担をかけないで末梢循環が改善される事になる。
 NOは体内に豊富に存在するある種の蛋白質と反応するとニトロソチオールという化合物になる。この化合物はNOの徐放剤としても機能する。例
えば、あるNO化合物の半減期は十数時間とかなり長い。これだけ半減期が長いと、全身の血管を通じてNOを緩やかに放出していく作用が、かな
り長期に亘って続く事が期待できる。
 鍼灸刺激は即時的な効果と持続的な効果を併せ持つ。この矛盾とも思えるような相反する作用は、NO作動性血管拡張神経とニトロソチオール
の作用によって、合理的な説明が可能になる。
 B炎症性サイトカイン等によるiNOSの誘導 細菌毒素が加わると悪玉的なiNOSの誘導が上昇する。消毒の観念が薄かった古代においては、
iNOSの急激な増加が、強力な殺菌作用を持ち得たかもしれない。しかしより衛生的な現代では、鍼灸からのiNOSによる悪玉的なNOの大量発生
を恐れる必要はないと考える。

 V.気とフリーラジカル
 黄帝内経時代の先人は、人体の生理学的活動にかかわる目に見えない生理活性物質や、生理機能の多くを気という広大な概念で包括して表
現した。「先天の気」は現代科学が究明し続けている、生命エネルギーであるが、「天の陽気」、「清気」は、鼻から肺に運搬される大気、酸素であ
ると考えられる。生命活動に必要な酸素も、体内で活性酸素となると傷害性を表し、いわば邪気となってしまう。 しかしその殺菌力は、衛気と表
現可能な善玉的な面でもある。 「水穀の気」は飲食物の栄養素から生じるものであり、営気、衛気となる。食物中に含まれるアミノ酸であるLアル
ギニンから、NOS はわざわざガス状のNOを産生する。またニトロソチオール化すると、体内の血中を巡り、末梢循環を改善したり殺菌作用を現す。
「水穀の気から生じる」という表現からみても、衛気とNOはよく似ている事がわかる。面白い事に皮膚のランゲルハンス細胞はマクロファージ的性
質を持ち、活性酸素もNOも産生するが、これは皮膚上で外邪を防衛する衛気の働きに良く当てはまる。また外邪としての細菌類と接触しやすい口
腔中では、そこに存在する好中球が活性酸素やNOを絶えず産生していると考えられている。人の呼気中にも気道で作られたNOが含まれている
(肺高血圧、心疾患術後においてNO吸入療法が行われている)。このように気の作用の一部はフリーラジカルの作用によって合理的に説明する
事が出来る。気の「防御作用」は、活性酸素やNOの持つ強力な殺菌力で代表される。「温煦作用」はNOの強力な血管弛緩作用による血行動態
の調節であり、「推動作用」は細胞の増殖や分化時に働く、シグナル伝達物質としての活性酸素の作用によるものと考えると、解りやすくなる。

 W.補瀉とフリーラジカル
 活性酸素は生体に有利な作用としては、細胞の増殖、活性化、アポトーシスに関係する細胞のシグナル伝達や転写調節因子の制御に関与し、
生体に多様な生理活性物質(ストレス蛋白質など)を誘導する。またその殺菌作用は生体防御機構の側面をカバーする。 生体に不利な面として
は、細胞やDNAの傷害性がある。特に血行動態では酸化LDL、サイトカイン、接着因子等を促進し、粥腫化を起こす要因となる。
 NOは血行動態において、活性酸素の作用と対照的に働く。つまり血小板や白血球の凝集を抑え、抗炎症的に働き、活性酸素をスカベンジし血
管保護作用を示す。また強力な血管拡張作用も発揮する。
 鍼灸刺激は同じ経穴を使用するにも関わらず生体のある状態を亢進したり、逆に弱めたりするという相反する作用を及ぼせる。これまで基礎医
学の観点から、これを説明する事は困難とされてきた。
 しかし、同じフリーラジカルでありながら少なくとも血行動態に関しては正反対に働くNOと活性酸素が、鍼灸刺激時にほぼ同時に生成すると考え
ると、合理的で矛盾のない説明が可能になってくる。もともと生体には物理的刺激に対して、NOや活性酸素などのフリーラジカルを発生する反応
を示す、生理的機能が備わっている。細胞のストレス応答能力の一面である。それを巧妙に治療に利用してきた技術が、鍼灸だと言える。 刺鍼
時の細胞傷害性は活性酸素を生み、また同時にシェアストレスや交感神経を高める事でNOを産生する。基本的に鍼灸刺激はNOや活性酸素を同
時に誘導してしまう。しかし両フリーラジカルの発生を偶然に任せたままでは治療の有効性が低下する。患者の酸化ストレスや細胞の還元状態に
よって、NOや活性酸素が異なる影響を与えるからである。従って、殆ど同時に生成してしまう二つのフリーラジカルの内、一方を優先的に作用さ
せ、治療効果を上げる必要性が出現して来る。
 鍼灸刺激で生体に正反対の効果が生理現象として現れることは比較的発見しやすいものだったのかもしれない。おそらく古典時代の治療家の
中でも観察力の優れた者は、かなり早い段階でこの事に気付いていたと推測される。実際、フリーラジカルの誘導を制御しようとする試みは、鍼灸
の歴史の初期に、すでにある程度完成された形で現れ、補瀉の法として現在まで伝えられるに至った。
 活性酸素は「細胞傷害」や、「虚血再灌」によって増加し、NOは「シェアストレス」や「交感神経の一過性の興奮」によって増加する。これら四つの
視点で古典の補瀉の手法を解釈し、生理学的反応として見直したものが表1である。
 「呼吸」…呼気時に副交感神経が高まり(筑波技術短期大学西條学長の研究参照)、呼吸運動に合わせた刺鍼は、交感神経の興奮を可能な限
り避けるようにするものである。 呼吸運動と逆の刺鍼は、交感神経を高めやすい。
 「迎随」…流注を血流として解釈すると、血流を抑制する動きが見られるのは瀉法の方である。血流の抑制はシェアストレスを高める事になる。
 「提按」…按じることは押す事であるがそれにより軽度の虚血状態が作られる。
 「徐疾」…刺痛を与えないゆっくりとした刺入は、交感神経の興奮を避ける為であろう。疾く刺入すれば痛みや刺入感が響き、交感神経の刺激傾
向が大きくなる。霊枢では瀉は徐抜だが、その際血管が引き延ばされると、ストレッチ(伸展)が起こる。これは、シェアストレスを上げる事が知られ
ている。
 「細太」…太い鍼は、細い鍼よりもシェアストレスを高めたり交感神経をより興奮させる。また細胞傷害性も大きくなる。
 「浅深」…両方で同じ深度に刺入するとした場合、補では「痛みを与えず徐々に行う」という原則があるので補法は瀉法に比べ交感神経を刺激し
ない。興味深いことに古典では瀉法の手技において痛みを与えるなという記述がほとんど無いようである。
 「寒熱」…熱は炎症状態を表し活性酸素の影響を想起させる。寒は、抗炎症効果を持つNOの働きを指したものと考えられる。基礎医学的には炎
症部への鍼灸治療は禁忌とされるが、臨床家は散鍼や少壮の透熱灸で抗炎症効果が生じる事を実際に利用している。散鍼は軸索反射を利用
し、少壮の透熱灸は前述したようにNOを生む。
 「搓転」…この手技について生理学的にどの様な効果の違いが補瀉で生じるのか不明である。
 「搖動」…補では刺手つまり鍼体のみを動かすことで細胞傷害性を増す。瀉では、鍼体周囲の組織ごと動かす事で鍼体周囲の傷害度を変えず
に交感神経を刺激する。
 ここで交感神経の興奮とNO産生の関係について、もうひとつ重要な機序がある。
 滋賀医科大学薬理学教室の戸田昇教授は、nNOS研究の世界的権威であるが、次のような研究を行っている。
 摘出末梢動脈に、電気刺激を適用すると収縮する。これをあらかじめ交感神経遮断薬などで処置しておくと、交感神経は遮断されているので刺
激による血管反応は弛緩に転じる。 この弛緩反応は、交感神経性、副交感神経性血管拡張神経によるものではないが、NOS 阻害薬では消失
する。これらの事から、戸田昇教授は末梢動脈での交感神経性の収縮神経とNO作動性血管拡張神経の拮抗二重支配を証明した。 但し末梢動
脈では、交感神経が優位であるため通常は収縮性に調整されている。
 鍼灸師として非常に興味ある点は、神経刺激が収縮神経と、拡張神経の双方を同時に興奮させている事が示唆されている点である。 つまり交
感神経を興奮させる刺激は、NO作動性神経をも同時に十分興奮させる事ができる。興奮した神経から遊離したNOは、ニトロソチオール化する事
によって、持続性を発揮する事が可能である。従って交感神経を刺激するような手法がNO産生に結び付く事は大いに考えられる。以上を踏まえ
て、表1の生理学的反応をNOと活性酸素のどちらが優勢に誘導されるかで区別し、解りやすくしたものが表2である。 この表で見る限り補法では
活性酸素がより優先的に、瀉法ではNOが優先的に誘導される傾向が明確に見いだせる。
 この傾向に妥当性はあるのだろうか。図1は、病証の基本を解りやすく説明する際よく使われる図だが陽気に活性酸素(O2-) 陰気にSOD (活
性酸素除去酵素)をそれぞれ該当させて表現している(フリーラジカルであるNOや活性酸素は性質上は両方とも陽気である。また中医学では陰
気は陰液と表現され、気が形をなしたものとされる。従ってこの図ではNOと活性酸素を各々陰陽に配する事はできない)。A、Bは実証であり、C、
Dは虚証である。補法が適用されるC、Dで活性酸素が発生すると考えてみよう。CではNF-κBが活性化され、Mn-SODが増加する事が考えられ
る。 Dでは酸化ストレス情報としての活性酸素が減少している状態である。いわば低酸素状態でもあるといえる。活性酸素が加われば、マップキ
ナーゼ系が活性化し、細胞増殖や代謝向上が起こる可能性がある。C、Dのような体力、エネルギー代謝の低下状態ではわずかな活性酸素が細
胞のシグナル伝達系を賦活し、細胞を活性化する。軽度の酸化ストレスが細胞を活性化するという重要な概念は1990年代に入ってから確立され
たものである。 瀉法が適用されるA、Bの内、AではSOD が亢進している。一般には活性酸素を除去する酵素が多いことは、悪い状態ではない
ように思われてしまいがちだがSOD のみが多量にあると、分解産物の過酸化水素が大量に発生するため、これを分解するカタラーゼなどの抗酸
化ストレス蛋白質が相対的に少ないと酸化ストレスがかえって強くなってしまう。例えば、SOD 遺伝子は21番染色体上にあり、ダウン症患者では
SOD の発現量が通常人の1・5倍ある。しかしカタラーゼ等は通常人と同じ量なので、結果的に神経細胞が大量の過酸化水素による酸化ストレス
の悪影響を受けているといわれている。つまり、抗酸化ストレス能力は一連のシステムとして機能しているのである。NOはMn-SODや炎症性サイ
トカイン類を誘導するNF-κBの活性化を抑制する能力がある。しかも、NOはシェアストレスによるマップキナーゼ系の活性化も抑制することが最近
報告された。Bは活性酸素の亢進からみてもまさに炎症状態を表しているが、NOがシグナル伝達系を抑える事やNO自体の持つ抗炎症効果が瀉
の治療効果を発揮する。また生理的濃度のNOは炎症に関与するプロスタグランジン産生の主役、シクロオキシゲナーゼ(COX ) にも作用し、急性
の炎症反応に関わるシクロオキシゲナーゼ2(COX-2 )の炎症効果を抑制する。A、Bの実証は、高血圧や高脂血症の状態であるともいえる。本
態性高血圧患者では、アセチルコリンでの血管弛緩反応が低下しているが、NOによる弛緩反応は正常人と比較して差がない事が報告されてい
る。しかもこれらの疾患の血管内皮は、強い酸化ストレスを受けている。従って高血圧などの病態に対しても、NOが抗酸化作用や血流改善能力を
示し、最適な治療になると思える。AやBでは細胞の代謝が亢進していると見る事もできるが、NOはミトコンドリアの呼吸を可逆的に阻害できる。
阻害された細胞は一時的に無呼吸解糖系へシフトする。これはNOが活性酸素の産生を減少できる作用の一側面である。
 NOが抗炎症的に働く時シグナル伝達系を抑制する事は、大変面白いことである。グルココルチコイド(ステロイドホルモン)やアスピリンの抗炎症
効果もシグナル伝達系である、NF-κBやマップキナーゼ系の抑制と関係が深い事が、最近数多く報告されている。
 これらを考えると、鍼灸刺激によるNOを通じての抗炎症効果は実はかなり強力なものかもしれない。
 A、Bの実証状態では、NOが抗炎症や細胞機能亢進の抑制を示し、C、Dの虚証の低代謝状態では活性酸素によってシグナル伝達系が賦活さ
れる事は合理的である。以上のことから考慮すると、補では活性酸素が、瀉ではNOが誘導されるという原則は十分妥当性があると考えられる。
 しかし、補瀉の手技においてフリーラジカルが逆に生成してしまう場合はどうなるであろうか。古典では、虚実に対して補瀉の適用が逆に行われ
ることは誤りだと説いている。 確かに活性酸素などの亢進状態に更に活性酸素が加わり、炎症反応が増せば症状が悪化してしまう。しかし、鍼
灸刺激で誘導されるフリーラジカルはその寿命の差やフィードバック形式そのものが一種のフェィルセーフティー機能(失敗防止機能)を持ってい
る。 活性酸素の寿命は生体内の酸素濃度下(1〜20μM)で数o秒から5秒とかなり短い。 NOは5秒から数分の寿命を持ち、ニトロソチオー
ル化すると十時間以上の半減期を持つ事が出来る。つまり時間的なスケールで見るとNOの反応系の方が優勢に働いてくる。活性酸素が短寿命
であるから補法は、「日が暮れるのを忘れるほど」時間をかけたり、繰り返すわけである。またNOはiNOSの発現を抑制(ネガティブフィードバック)
するので、虚証の場合、NOが主に作用してしまっても悪玉的なiNOSは増加しない。
 以上の事は、古典の「先補後瀉」の原則や、中医学の「平補平瀉の法」(補瀉のどちらにも偏らない刺鍼法)が効果を持つ事からも支持される。
つまり、先に瀉法でNOが生じていると、その抗酸化作用で後の活性酸素を消去してしまうし、補瀉を考慮せずに施術すると活性酸素も生じるが善
玉のNOの効果が自動的に表れて来ることになる。また、興味ある事に、金鍼は補法に向くといわれるが、抗リウマチ薬のオーラノフィン等の金製
剤は血管のNOに対する反応を抑制するといわれている(リウマチの炎症局所ではiNOSが亢進している事が多い)。金鍼はその材質によって刺鍼
によるNOの効果の方を抑制するのかもしれない。九鍼のうち員鍼は分肉の間(浅い部分)をこすって気を瀉し、D鍼は脈を按じて気を補うとされ
る。こする事は軸索反射や血管をしごく動きであり、NOが発生する。按じる事は一過性の虚血状態を作り、活性酸素を生む。 按摩も、古典的な
解釈では按は押す事で補法を指し、摩のこする動作は瀉法を表すという。 このように補瀉とフリーラジカルの密接な関係は、鍼灸以外の分野でも
それが使い分けられてきたことから伺い知る事ができる。 東洋医学の治療家はある一つの刺激が生体に相反する反応を同時に生み出すという
考え方を比較的抵抗無く受け入れることが出来る。 陰陽の気の複雑な相互作用が人体に様々な形で現れると学んできたからである。「生体は
与えられた刺激に対して、相反する反応を必ず対で発生する」という原則を東洋医学は何千年も前から実際に利用してきた。一方西洋医学は分
子生物学などの発展がこの種の概念の萌芽に寄与し始めた所である。西洋医学は東洋医学からまだ多くの事を学ぶことが出来よう。

 X、鍼灸と細胞のストレス応答
 鍼灸刺激下で生じるフリーラジカルは、多彩な機能を持っている事を述べてきた。鍼灸刺激によって誘導される様々なストレス蛋白質やサイトカ
インは、フリーラジカルと種々のクロストーク(相互作用)を行う事により、生体の機能に影響を与えている。 熱ショック蛋白HSP90は、分子シャペ
ロン(変性蛋白の再構成機能役)としての働き以外に、eNOSを活性化する。HSP70は、熱以外に活性酸素でも誘導される。SOD 活性の上昇によ
りこのHSP70の誘導は消失する。癌抑制遺伝子p53 は、紫外線、放射線、灸刺激のような熱ショック以外に、生理的濃度のNOによっても誘導が
上昇する。 活性化したp53 は悪玉的なiNOSの亢進を抑制する。また、鍼と灸の組み合わせ自体が特殊な効果を現すことも重要である。例えば、
重要な抗酸化ストレス蛋白質のヘムオキシゲナーゼ(HO-1)はラットでは熱ショックで著明に増えるが、ヒトでは熱ショックでの誘導が抑えられてし
まっている。しかしIL-6などのサイトカイン刺激下では発現しやすくなる。刺鍼によるIL-6の発現は確認されているので、鍼と灸の組み合わせは熱
だけでは発現が困難なヒトのヘムオキシゲナーゼを効率的に誘導できる。そして、ある種の熱ショック蛋白質は、名前に似ず、熱以外の物理的刺
激によってはじめて生じるものもある。鍼と灸の組み合わせはこの様な生体機能にも対処出来る手段を持っているのである。

 ストレスに対処する仕組みはストレス応答と呼ばれ現存する全ての生物に備わっている。 なぜなら進化の過程で単細胞生物が外部環境の
様々なストレス(環境因子)に耐えられない事は死を意味し、現在まで生き残れなかったからである。環境因子は、熱ショック(高温)、高圧、紫外
線、、低温、栄養素欠乏、酸化ストレスなどである。これらに対処する営みこそ即ち細胞の生存戦略であり、細胞の防御機構を発達させた要因で
あった。細胞はあるタイプの弱ストレスでそのストレス抵抗性を獲得すると、他の種類の強いストレスにも抵抗性を示す。 これは「交叉抵抗」と呼
ばれる。例えば熱に対して抵抗性を持った細胞はエタノールに対しても抵抗性が強くなる。鍼灸治療は原始的な刺激療法と言われることがある。
しかし、原始的な刺激だからこそ、細胞はそれを環境因子の再現として認識しやすいと言える。つまり、細胞は鍼灸刺激によって記憶しているスト
レス応答能力が呼び覚まされるのである。そして鍼灸は細胞の交叉抵抗の能力を利用して治療効果を上げる。 弱い酸化ストレスを与えて、細胞
を活性化することもその例である。これまで鍼灸が組織破壊により、生体防御機転を刺激するといわれてきた。主にサイトカインや白血球による免
疫系の賦活がその中心とされる。 今後は細胞のストレス応答による防御機構も考慮に入れる必要があろう。また「組織破壊」という面では肝細
胞増殖因子(HGF)がIL-1などの傷害付随性のサイトカインやプロスタグランジン等の刺激で発現する事や通常は活性が低いシクロオキシゲナー
ゼ1(COX-1)が、細胞破壊によって放出される物質を利用して血管拡張作用のある生理活性物質を産生する事なども重要である。
 フリーラジカルやストレス蛋白質は、細胞の機能に深く関与するため西洋医学の分野ではこれらに関する様々な薬の開発が行われている。灸に
よるHSPの誘導は、鍼灸の特徴とばかり言ってはいられないかもしれない。例えばHSP遺伝子の転写を促進する熱ショック転写因子(HSF)を直
接誘導する薬が、虚血や創傷治癒の治療の為、ヨーロッパではすでに第二相の臨床試験に入っている。
 このように現在の西洋医学は転写因子を利用したり、遺伝子治療が最先端技術である。 しかしベクターウイルス(遺伝子運搬用ウイルス)の安
全性や治療法の特許の障壁など問題も多い事も事実である。 鍼灸刺激によるフリーラジカルやストレス蛋白質がシグナル伝達系や転写因子な
どの重要な機能に関わる事を考えると、鍼灸治療はこれほど古いのにも関わらず、「転写調節因子を介する」という条件付きではあるが、実は安
全な遺伝子治療効果も持つ、と表現しても過言ではないだろう。
 おわりに
 ミトコンドリアは、嫌気性菌と共生を果たした好気性菌であると提唱したリン・マーギュリス博士は、「あなたの体の細胞には初期の地球で起こっ
た過程が反映されている」と述べている。最近では我々真核生物の祖先は大腸菌のようなバクテリア(真性細菌)ではなく、アーキア(古細菌)で
あるという概念が定着しつつある。アーキアには90度以上の温泉に生きる超好熱菌、超好酸菌、深海の熱水中のメタン細菌等がいて、人間から
みると地獄のような世界に生きている。彼らはまだ地球上に酸素がほとんどない時代から過酷な環境因子を乗り越えて進化を続けてきたのであ
る。多細胞生物となった我々ヒトが熱ショックでストレス蛋白質を作り、細胞の蛋白の変性を防ぐ能力を持つ事や、酸素が無くてもATPを産生でき
る事、そして抗酸化システムを発達させてきた事などは超好熱菌が遠い先祖だと言われると納得がいく。細胞にとって外部環境の変化に対し、適
格な応答ができない事は即、死を意味した。そのため、環境因子の変化というシグナルを間違えず確実に聞き分け、敏速に対処できた細胞だけ
が生き残り、ストレス応答の能力を高めていったのである。 それを実に巧みに利用する治療技術が、鍼灸治療だといえよう。

 鍼灸治療はなぜ効くのか。
 それは、細胞達が三十八億年に亘って聞き慣れ続けてきた、最も解りやすい言葉で、鍼灸刺激が静かに彼らに語りかけるからなのである。

  
表1.手法の補瀉法
古典               生理学的反応
    類別\手法
      呼吸 呼気に刺入し吸気に抜鍼 呼気に刺入し吸気に抜鍼 交感神経± 交感神経+
迎随 経絡に沿って刺入 経絡に逆らって刺入 血流を非抑制
シェアストレス±
血流を抑制
シェアストレス−
提按または 開闔 経穴の上をよく按じて刺鍼し、抜鍼後は直ちに鍼孔を閉じる 抜鍼後に鍼孔を開ける 軽度の虚血状態を作る 虚血状態を作らない 
徐疾または 出内・遅速 徐々に、刺痛なく刺 入し、徐々に抜鍼する 疾く刺入し、疾く抜鍼する 交感神経 ± 交感神経 +
 鍼の細・太 細い鍼を用いる 太い鍼を用いる 細胞傷害 ±
シェアストレス±
交感神経 ±
細胞傷害 +
シェアストレス+
交感神経 +
浅 深 浅く入れて後に深くする 深く入れて後に浅くする 交感神経 ± 交感神経 +
寒 熱 刺入した鍼下の部が熱する 刺入した鍼下の部が寒える 起炎症効果  抗炎症効果
 搓 転 (左右) 鍼を捻るのに患側の左側では右回転、右側では左回転させ │補法の回転方向の逆を行
搖 動 鍼を刺入して、刺手を震わせて気を促す 鍼を刺入して、押手を揺るがせて気を泄らす 細胞傷害 +
交感神経 +
細胞傷害 ±
交感神経 +

                                                                           ±;刺激度 低   +;刺激度 高
「東洋医学概論」東洋療法学校協会偏より         


 表2.補瀉法でのO2-とNOの比較    

類別手法
       補       瀉
呼 吸 O2−>NO O2−<NO
迎 随 O2−>NO O2−<NO
提按または 開闔 O2−>NO O2−<NO
徐疾または出内・遅速 O2−>NO O2−<NO
鍼の細・太 O2−≧NO O2−≦NO
 浅 深 O2−>NO O2−<NO
寒 熱 O2−の効果 NOの効果
搓 転 (左右)  ?  ?
搖 動  O2−≧NO  O2−<NO
            
O2−;活性酸素種
NO ;NOやRSNO
























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